図書館に着いた僕たちは冷房による恩恵に浴し、ハンカチで汗を拭った。

僕は苦手な数学のワークブックを開き、二階堂さんは歴史、熊井さんは英語と全く揃わない感じはなんだろうか。これでは机を一緒にしているだけではないかと思ったが僕は黙っていた。何故かさっきから妙にピリピリとした空気が漂っている。そりゃそうか。夏休みを犠牲にして我々は宿題なるものをやっているのだから。悲しさが喉元まで込み上げて嗚咽に変わりそうだった。
僕は早々にやる気を失い、大きな窓の外を眺めた。図書館の中庭には夏らしい光が降り注いでおり、もし僕が夏大好き少年だったら今すぐにでも「宿題なんぞは放り捨てて、海に行こうぜ」と宣うところだ。
とんとん、と僕の腕を指でつついた二階堂さんが「手が止まってる」と書かれた付箋を見せてきた。そうだね、止まってるねと言うかのように頷いてみせる。彼女は眉間に皺を寄せて再び何かを付箋に書き始めた。何を書いているのかと覗き込むと「殺」という文字が見えたので僕はひとまず溜息をこぼしつつもワークブックに視線を戻した。
今この瞬間、何人何千人の学生が宿題をやり、あるいは諦め、怠けていることだろうか。
「アア、ナマケタイ、オコタリタイ」と口に出して言ってしまった僕は案の定、机の下で二人の蹴りを頂くこととなった。このまま座っていても集中できそうになく、逃げるようにして中庭に出てきたのは勉強開始から28分が経過していた。我ながら長くもった方だ。褒めてつかわそう。しかし夏の外は地獄のようだった。すぐに汗がじんわりと肌の上に浮かび、冷房がきいていた室内から出てきたことは人生の誤りだと思った。さて戻るか。…いやいや、早まるな。あそこには手付かずの宿題があり、二人の鬼教官が待っている。一人ならまだしも。
大木の下にぽつんと置かれたベンチに座り、木漏れ日を浴びつつ、もう少し、もう少しと頭の中で繰り返していると額に冷たいものが置かれ、阿呆のように反応して目を見開いた。目の前には二階堂さんがいた。その手にはピーチネクターの缶が握られていた。
僕は汗とともに缶から額に移った水滴を拭うと彼女を見た。『これあげるから戻ろう』と言っているようだ。
「くれるの?」
「なんで?」
「いや、なんとなくそんな気が」
「あげたら戻る?」
「うーん、検討中」
二階堂さんはその手にしていた缶をちらっと眺めると、ゆっくり頭の近くまで持ち上げてみせた。
「あげた」
僕はきっと彼女なりの冗談なんだろうなと思いながらも、とっさに反応できなかった。すると慌てるように彼女はわたわたとした。
「あ、これは、あれよ、ほら、手を挙げるってのと差し上げるっていうのをかけてみたっていうジョーク? いいの、笑えないとかそういうあなたの感想は。わかってるから、これが面白さを誘うものではないってことぐらい。うん」
二階堂さんは力強く「うん」と自身に言い聞かせるように言葉を吐いた。どうやら少しは自信のあったネタだったらしい。…笑うべきか、いや、それは彼女のためにはならない。うん。
「二階堂さん、夏はまだまだ続きそうだねぇ」
「そりゃそうよ。だって、始まったばかりですもの」
僕は二階堂さんの手から缶を奪うとベンチから立ち上がり、缶を開けた。
「いただきます」
「あ、ちょっと」
口の中に広がる桃の香りは、甘く、どろっとした液体は舌の上を滑り、僕の喉に流れ込んでいった。