勉強が苦手な人がよく陥ることのひとつに、机に向かっているだけで蕁麻疹が出るとか言い始める学生。タカナシくんがふらふらと立ち上がって出ていくのを見送りながらそんなことを思った。
私は付箋を握り潰すと、筆箱の中にしまい、腕時計を見る。期待はしていなかったとは言え、早々に離席しすぎじゃないのタカナシくん、と心の中でぼやきつつ、椅子から立ち上がった。
「え?」
「ん?」
私は立ち上がりながら、机を挟んだ向こう側の熊井さんが立ち上がってこちらを見るのに出くわしたのだった。
「どういうこと?」
「何が?」
という言葉を小声で掛け合う私たち。いや、分かってる。私が何処へ行こうとしていて、彼女が何処へ行こうとしているかなんてことは。しかし、行けるのは恐らく一人。再び腰を下ろし対峙する私たち。周りが何事かときょろきょろとこちらを観察し始めた。
私はノートに「何処行くのよ?」と書いて熊井さんに見せる。
それに応じるように彼女もノートに書いた文字を私に見せた。「ちょっとそこまで」
私は再びノートに文字を書く。「ちょっとそこまでってどこまで?」
彼女はすぐさまノートに答えを書く。「あなたこそ」
このままでは不要な文字を書きすぎてノートが埋まる。その文字たちを消しゴムでせっせと消す作業は無駄にしか思えなかった。私はやむなしと思いながら熊井さんに拳を掲げ、手の形をグーチョキパーと変えてみせた。一瞬、考え込んでいる様子だったのはジャンケンが弱いからではないかと想像した。あとは彼女が乗ってくれば。…
熊井さんが頷き、3本の指をピンと伸ばして私に向かって突きつけてきた。どうやら3回勝負ということらしい。妥協しようじゃないか、熊井さん。
オーディエンスが本やらノートやらに視線を落としつつも、勝負の行方を見守っているのが分かった。もしかしたら心の中でどっちが勝つかを賭けている者もいたかもしれない。でも私自身が呆気にとられるぐらいに決着は早々に着くことになった。私の3連勝である。熊井さんは自身の拳を見つめながら何故に負け続けたのかと問いかけているようで、そんな彼女に私は胸中で独り言ちた。ごめんなさい、私、ジャンケンだけは生まれてこの方、負けたことがないの。
熊井さんを残してタカナシくんを探しに来た私は、意外とあっさり見つかると思っていたにも関わらず、休憩所にもいない彼を探し回ることとなり、一階から二階へと二階から一階へと歩き続けた。背よりも高く書物が詰め込まれた棚は視界を遮り、このまま見つからなくてもいいじゃないと楽しんでいるよう。
再び2階へと向かう階段を登っていると、窓の外に中庭が見えた。そして木陰に置かれたベンチで寛ぐ青年の姿が。タカナシくんだと私は思った。この暑い中、何故彼は外になんか行ってしまうのかと行動に対して解せない思いにとらわれつつ、外へと続く扉を前に躊躇した。外は冷房のない世界、太陽光がこれでもかと言わんばかりに照射してくるのだ。
私は扉の前で踏みとどまり、踵を返した。冒険家が砂漠で空になった水筒を持ちながらオアシスの蜃気楼を見続けるというビジョンが頭をよぎり、私は図書館内の休憩スペースに並ぶ自販機前に行くと、小銭を投入して、最初からこれを買うと決めていたようにボタンを押した。
鈍い音を立てて落ちてきたピンク色の缶を取り出すと、そっと頬にあてがう。頬を伝って水滴がぽたりと落ち、服に一点のシミを作った。