一度きりの人生とは言ってもチャンスが訪れる人間と訪れない人間はいる。朱乃にはもしかしたら訪れることはなかったかもしれないチャンスがやってきたのかもしれない。
俺は給湯室で洗い物をのんびりやっている朱乃に社長が呼んでると告げた。「はて?」という顔をしてみせたがそりゃそうだろう。俺だって明日から役者やりなさいとか言われたら「はて?」みたいな顔をして、いったん顔洗ってきていいですかと真顔で聞き返すだろう。
ちゃっちゃっと手についた水を払い、ハンカチで手を拭った朱乃は薫子のもとへと向かった。俺はその背中を見送りながら、そのチャンスを掴むも流すも結局はお前次第なんだけどなと心の中で声をかけてやった。
冷蔵庫を開けると、中にはペットボトルが3つ。マジックペンで蓋などに「私の」「社長用」とか書かれている。朱乃が書いているのだろうか。まさか本人が「社長用」と書くとは思えない。
「なぁんですかぁ、それはぁぁ」という朱乃の叫び声が聞こえたが俺はスルーする。そして訪れる沈黙。だが静けさは続かなかった。「何で断るのよ」という薫子さんの声が響き渡ったからだ。
「どうしました?」と何も知らない風を装いながら二人のもとに戻ってきた俺に対して薫子さんは「この子、信じられないんだけど」と言い、朱乃は「冗談じゃないですよ」と言った。
「経験値0の私がですよ、所属女優を差し置いて、え、え、え、映画なんて出られるわけないじゃないですか」
「誰だって最初はゼロスタートよ。やったぁってアホみたいに喜べばいいじゃない」
「自信がありません」
「自信なんてないぐらいがちょうどいいのよ。最初は」
「でも」
「でもじゃない。社長命令だから、これは」
「パワハラです!」
両者睨み合い、平行線をたどる。何やってんだか。……
俺はポケットに手を突っ込み、車の鍵を弄った。
「朱乃。買い出し行くぞ」
「え、買うものなんてないはずですよ。私、今朝スーパー行ってきましたもん」
「あるんだよ。いいから来い」
それ以上は何も言わず、俺は彼女を事務所から押し出すように外へと出た。
駐車場に停めてあるのは高級車なんかじゃない。日産のノートだ。