確かに、今美冬ちゃんが手にしている麦わら帽子は彼女の姉であり元カノの明奈に買ってものだ。申し訳ない程度の大きさのリボンがついている。
「ねえ、お兄さん。この帽子にまつわるお話してくださいよ。霊園に着くまでに」
「そんな短いお話でもないし。退屈だと思うよ」
「退屈な話かどうかは聞き終わってから決めます」
「そうなると私は退屈かもしれない、退屈だと言われるかもしれない話を今からしないといけないってことなのかな」
タクシー運転手が二人の会話を盗み聞きしているような気配を感じた。
麦わら帽子。いつだったろうか、それを買ってあげたのは。恐らく夏のはずだ。まあ冬に麦わら帽子を買う馬鹿者もおるまいが。
「お姉ちゃんが言ってました。あの人っておかしいんだよ。来年の夏、海に行くぞって言って、冬に麦わら帽子をプレゼントしてくるんだから。誕生日でもないのに、何祝いよ、って」
前言撤回。馬鹿者は私だったようだ。しかし何でまた冬に。……来年の夏は海に行く、か。いやいやいや、海に行く直前でいいよ買うのは。でも、おかしいな。明奈とは海に行った記憶がない。
「でもこの帽子を被って海に行くことはなかったんですよ。あ、正確にはお兄さんとは」
「え?」
「ちょうどその頃です。お兄さんと奥さん、元奥さん? が付き合い始めたの」
「……」
「別に責めるつもりはなくてですね。ただ、忘れていたらちょっとお姉ちゃんが浮かばれないなって。そう思ったので」
と言うなり美冬ちゃんは黙って窓外を眺め始めた。
「私が行ったんです、お姉ちゃんと、海」
「そうなんだ」
「そうなんです。知らなかったでしょ?」
「知らなかった」
「それが姉妹揃って出かけるのは最後になっちゃいましたけど」
恐らく明奈の体調が崩れていったのは夏を境だったと聞いた。その翌年、夏を待たずに死んだ。私にその話が届いたのは全てが済んで、彼女が骨となってお墓に納骨されて、暫く経ったあとだった。
「明奈が死んだ」
そう共通の友人が教えてくれた時、私は言葉を失った。冗談かと思った。病気にかかることもなく、怪我をすることもなく、楽しげに笑っている彼女の姿しか思い出せなかった。死ぬ。それがとても非現実的なことのように思えて納得できなかった。それを知らされたのも遅いと思った。だが友人は眉間に皺を寄せて、十河さんが言ったのと同じ言葉を言うのだ。
「言えるかよ」と。
最後、別れた日の彼女は…笑っていただろうか、いや、笑っているわけがない。じゃあ、どういう顔をして私を見ていた?……
私はタクシーの窓を少しだけ開けた。蝉の声がした。