今宵の月は満月ですね、と彼女は言う。
僕は其れを見上げて、ええ、満月ですね、と応える。
本当ですか?と彼女は聞く。
僕はもしかしたら多少満月じゃないかもしれない、と応える。
どっちなんですか、と君は僕のことを笑う。
月の光が君の横顔を照らし出す。
僕は本音を言うならば「きれいだ」なんて陳腐な言葉を吐きそうになるが、
吐いた瞬間から後悔するんじゃないかと起きてもいないことに恐れて言葉を飲み込む。
ねえ、もしあの月までビューーーンって行けたらどうしますか?
と君は月を指差して言った。
僕は考える。月に行けたとして何が出来るだろうか。
アポロ11号ごっことかするんだろうか。
無重力が楽しくて飛び跳ねたりするだろうか。
それは一人で?と僕は聞いた。
君は笑って、月をさしていた人さし指をそっと彼女は自分の顎にもっていった。
私も、です。と君が言う。
僕はなんだか恥ずかしくなって、ああ、夜だから赤面していても君に気づかれずに済むと
胸をほっと撫で下ろしたくなる気分のまま、月を改めて見上げた。
私は月に行ったらあなたと踊るわ。
僕にお相手が務まるだろうか?
大丈夫よ、私がリードするわ。
なんだかそれはそれでとても情けない気がするよ。
彼女が月明かりで優雅に舞ってみせた。
僕はその優雅な舞を見ているのが精一杯のように思えた。
もしも君とあの月に行けたなら、と僕は彼女のことは見ずに言う。
行けたなら?と君は言う。
きっと月から地球を眺めて、ああ、今日も地球は綺麗ですねって言うだろう、と僕は言った。
踊らない?と君は意地悪そうな笑みを浮かべて聞いてくる。
僕は踊れないから、月に住むというウサギと踊ればいいよ、と答えると、
それじゃあきっとあなたはつまらないと言うわと言った。
果たして僕は君に対してつまらないと言うのだろうか。
そのウサギに嫉妬して、憎んで、代わってくれ、僕が踊るんだ、と言い出すだろうか。
ねえ、今度会社の近くの旅行代理店で月旅行のパンフレットを探さない?という彼女。
君の提案はいつも僕を驚かせる。
以前も結婚式は森の中がいいわと言って僕を戸惑わせた。
もしあの月がただただ君を照らし出してくれるのであれば。
僕を影の中に置き去りにしてくれるのであれば。
もしあの月がじっと僕らを監視していないのであれば。
勇気を出して僕は君に言えるかもしれない。
ねえ、君。どうか僕と踊ってくれませんか、と。