【短編オリジナル小説】猫も大概ヒマじゃない vol.3

駅の軒下。滴る雨。
私の隣で微笑む少女は私のことを「お兄さん」と呼んだ。その笑顔はとても……。

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「美冬ちゃん。今から?」
「はい。これから出勤です」

私の勤務時間は18時までで、これから誰も待つ者のいない部屋に帰宅して
スーツを脱ぎ散らかしてリラックスできる私としては少しだけ彼女に申し訳ない気持ちになった。
一日働いてきたとは言ってもだ。

「お兄さんは、」
「あのさ、なんで美冬ちゃんは私のことをお兄さんって呼び続けるの?」
「よくないですか? 不快ですか?」
「不快じゃないけどさ」
「ならいいじゃないですか。最初にお会いした時からずっとお兄さんって呼んでるので、
今更変えるのは逆に変です」

こうして立ち話をしていても、雨は一向に止んではくれないし、
弱まってもくれない。

「傘、入れてあげましょうか? お店まで着いたら確か予備の傘を置いてあるので貸せますよ。
赤いんですけどね」
「ああ、女性らしい感じの?」

美冬ちゃんは「ころころ」と笑った。
別に声に出して「ころころ」と笑ったわけじゃない。
その笑い方に音をつけるとしたら「ころころ」かなと私が思っただけで。
そう言えば元妻と一緒に飼っていたあのネコも「ころころ」と鳴いていたな。

「ついでに一杯飲んで行っちゃおうかな」
「え、ホントですか? 嬉しいです」

と言って美冬ちゃんは喜びを素直に表現する。うっかりその笑顔を信じてしまいそうになる。

「よく笑うようになったね。昔は、」
「お兄さん。それ、やめましょう。こんな雨の日に」
「ごめん」

軒下に私のように傘を持っていない人間がどうしたものかと悩んでいる姿が
ちらほらと増えてきた、ような気がした。

何人かの中学生あるいは高校生が学校カバンで頭を守るように雨の中に飛び出して行ったのを見た。
若いからか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけカッコよく見えた。
まるでドラマとか音楽PVの1シーンにありそうな……ってのは言い過ぎかな。

少しだけ想像してみる。自分が雨の中に飛び出して行く姿を。
まず現実的にカバンの中に入っているノートパソコンが心配だ。防水仕様ではない。

次に家に辿り着いて雨と汗でびしょびしょの服を脱いで、
靴下が足にぺっとりとまとわりついているのをひっぺがして洗濯機に放り込んだ瞬間、
とてつもない敗北感に襲われそうだった。

私はひとりこんな脱衣場で何をしているんだろうと想像するだけで、
今にも泣けそうだった。いや、かろうじて泣かないんだろうけど。

不意に美冬ちゃんが傘を開いた。

「お兄さん、行きましょう」

と言って美冬ちゃんは雨の中に一歩進み出て、振り返った。
その笑顔はとても、私を滅入らせた。

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